建築日記~格ちゃんのひとりごと~

(株)環設計のブログです。 最近思った事や、建築に関する近況などを書いていこうと思います。




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団塊の世代と呼ばれて :: 2013/09/21(Sat)

今日は9月20日、前回のブログから3カ月半が経過、ともかく怒涛の3カ月半でした。
多分、平成元年に埼玉県の中村病院を設計していた時以来の、毎日が真剣勝負の3か月半でした。
でも9月18日、業者さん達に現場説明会と図面渡しを無事終えて、ヤット一息つきました。

そこで、今回は8月20に宇都宮東ロータリークラブで<団塊の世代と教育>について話をさせて頂いた
講演内容を紹介させて頂き、3カ月ぶりのブログ掲載とさせていただきます。

<団塊の世代> h250820 卓話  東RC 青木格次 

前回、小菅先生が戦中、戦時下の体験談と、受けて教育について話をなされました。
本日は戦後の団塊の世代について、話をして欲しいと加藤プログラム委員長から依頼を受けましたので、少し話をさせて頂きます。
<団塊の世代>ね・・・あまり言われたくない言葉ですが・・・。簡単に説明させて頂きますと、
昭和22・23・24年生れの約810万人を指しています。
でも 昔から団塊の世代と言われた訳ではなく、昭和51年に堺屋太一氏が発表した<団塊の世代>という小説によって名付けられた言葉が団塊の世代です。

簡単に私達の世代とバックボーンの社会情勢を紹介させて頂きますと

・昭和30年代は小学校入学し、中学校を卒業する10年間です
小学校ではもはや戦後ではない!の掛け声と共に日本中が一斉に走り出したような時代です。皇太子ご成婚、月光仮面、巨人大鵬卵焼き・・・でベビーブームの子供達と呼ばれました。ともかくいたるところに子供があふれていました。
中学校では高度成長の時代です。東海道新幹線、東京オリンピックを迎え、私達は金の卵達と呼ばれました。私の中学のクラスからも7~8名が集団就職で東京に出ていきました。

・昭和40年代は高校入学から大学卒業、就職の時代です
高校はデンデケデケデケ・・・ベンチャーズやヤヤヤのビートルズ、そしてグループサウンスとエレキの時代でした。そして大学は一転して毛沢東の<造反有理>のスローガンを掲げて、友人達とデモに参加しました。全学連から、更には全共闘へと続く、熱に浮かされていた様な大学時代でした。

・しかし昭和50年代に入ると、48~49年のオイルショックの影響で<造反有理>どころか、就職しなければ食べてゆけない、と資本主義体制にドンドン組込まれてゆきます。<就職が決まって髪を切って来た時、もう若くないさと君に言い訳したね>の<いちご白書をもう一度>の世代です。そして第一線でバリバリ仕事をし、やがて結婚ブームを巻き起こします。この時代 私達はニューファミリーと呼ばれます。団地生活の核家族です
 この時代に先ほど紹介した堺屋太一氏の団塊の世代がベストセラーとなりました。

・昭和60年代、年齢的には35~38歳、まさに職場の第一線前線部隊の我々にバブルという大きなプレゼントが届きます。あの熱に浮かされた時代、何だったのでしょうか?  週に2~3回は泉町、本町、松が峰で ア、コリャコリャ、やあんたが大将!と、仕事もやったけど、遊びもしました。バブルの世代と言われました


・しかし平成に入ると、アレレ?という間に花が散り、失われた10年、20年の時代を迎えました。坂の上の雲を信じて、一生懸命登って来たが、頂上に着いたら雨で何も見えなかった…そんな気分です。家も車も日用品も身の回りに全てある、女房も子供も居る、サア今日も明日を夢見て頑張ろう!という気力が衰えて来ました。一方で一昨年あたりから友人達は次々と退職し、今は団塊の世代の元気なおじさん、おばさん達がストリート デビューして街に溢れています

数字で見てみますと昭和22・23・24年の毎年の出生数は270万人、3年間で810万人です。更にその前後昭和21年、昭和25年を加えるとその人口は1,200万を超えます。
日本に人口の約10%が集中しています。5年毎に分けた日本の平均人口が約800万人ですから、約1.5倍です。日本の人口ピラミッドを見ると60~65歳が大きく膨れ、更に35~40歳でまた膨れています。その後は見事に逆ピラミッドを描いています。モンローチャンスタイルですね。ちなみに現在の日本の出生数は約110万人ですから、団塊の世代はその2.5倍、子供達がいたことになります。

・さてどんな教育を受けてきたかというと、簡単に言えば今とほとんど同じです。

小学校も中学も一日6時間、但し土曜日は午前中4時間で半ドンでした。
しかし教育環境は凄かったですよ。1クラス平均55~58名で正にスシ詰めです。ちなみに最近の小中学校は1クラス33~35名と聞いております。
私は大谷町の城山中学校でしたが1学年7クラスあり、55名で385名、学校全体では3倍の約1,200名です。今は全校生徒数320名、約1/4です。もっと凄いのは私達の時代に最大の中学であった一条中学校です。その当時は1学年17クラスあり、クラス平均55名とすると、全校生徒は何と2,500名、大学並みです。でも今年の全校生徒数は410名です。なんと現在の約6倍も生徒が居たのです。多分、敷地や校舎の大きさは変わっていないと思いますので、如何にすし詰めであったかと言う事です

・授業内容ですが小学校には5年6年生の時は道徳の時間があり、キューリー夫人や野口英雄、シュバイツアー博士、西郷隆盛?などの沢山の偉人の話を聞かされました。二宮金次郎の像も在りましたが、天皇陛下の御真影は在りませんでした。
中学校では高校受験の科目が9教科ありともかく大変でした。国語、数学、英語に理科、社会に加えて音楽、美術、保険体育、技術家庭科と但し点数配分は前の5教科が100点で、後の4教科は50点満点で、試験は2日間でした。しかし今思うと、後の4教科を勉強した内容が、今でも役に立つことが多いので感謝しています。

・また、推薦入学などの制度は無く、自分の努力で希望の高校や大学を目指して、皆遅くまで受験勉強していました。夜の11時からは大橋巨泉と朝丘雪路の11PMではなく、ブラームスの大学祝典序曲で始まる旺文社の大学受験講座を聞き、その後 文化放送のセイヤング、日本放送のオールナイト日本で、夜明けまでウツツを抜かしたものでした。レモンちゃんこと落合恵子さんが宇都宮出身だと知ったのは随分後の事です。

・学校生活での違いは、まず何と言っても先生が尊敬されていました。生徒にも、父兄にも、です。また先生方も戦中戦時下を生きて来られた方々なので、厳しいけど優しかったです。多分、親と同じ価値観や連帯感が有ったのだと思います。

・もう一つはイジメが少なかった・・・というかイジメは在ったのですが、今のような陰湿なイジメではなく、女の子の前でズボンやパンツを下げさせられたり、嫌がるあだ名をつけからかったりする事が多かったです。また番長という仕切り役が居て、イイ加減なところで止めに入りました。城山中学では番長は各クラスに一人いて、それを束ねる3年生の総番長が居て、まさに裏の生徒会長みたいな存在で、ともかく廊下でスレ違う時などは怖かったのを覚えています。

・クラブ活動はあまり活発では無かった気がします。ともかく人数が多いので、スポーツ系のクラブが放課後一斉に練習する事は不可能でした。城山中学では軟式野球部は週3日間、卓球部は宇川地区優勝校なので体育館の一角を占領して大きな顔をしていた事を思い出しました。

・団塊の世代の特徴を簡単に言うと、一人一人が個性的であると言う事です。ともかく人数が多いので、人より良い成績を残すか(勉強でもスポーツでも)、人のやらないことに挑戦するか、人と違う観点から発言するか・・・ともかく今の子供達は目立つことを嫌がるようですが、あの時代は目立つことが、女の子にもモテル事でした。
ですから団塊の世代の芸能人には非常に個性派が多いです。谷村新司、南こうせつ、井上陽水、武田鉄矢、矢沢永吉、西田敏行、ビートたけし、小泉純一郎首相と・・・ 数えきれないくらい位います

・もう一つの特徴は<明日は今日より明るく、豊かなはずだ>と信じて、前を向いて頑張ってきた世代です。それが他の世代からは、独りよがり、自分勝手、と映る事が多かったのかもしれません。でも多分、団塊の世代が日本に数多くの流行や需要を作り出し、経済大国に押し上げた縁の下の力持ちである事は間違いないと思います。
ただ一方で私達の通過した後には、過当競争と過剰施設を残して来たことも事実です・

・はたして、これから私達は高齢化を迎えて大人しくなるか、それとも ブリリアント60テーンズ(輝ける60歳台)として、新しい流行をまた生み出してゆくか? ともかく人生一度、友人知人、ロータリーの仲間達と残りの人生を楽しく、また社会に少しでもお役にたって行きたいと考えておりますので今後とも宜しくお願いいたします。
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